23歳教員2年目が”元教え子”に会ってきた話

皆様、こんにちは。

 

この記事を書いているのが2023年9月1日の夜。小学校で言うなら、いよいよ2学期も本格的に始動してきた頃ですね。疲れた。ねむい。

 

今回はタイトル通り、23歳(今年24歳)で教員2年目(まだ講師)の私が、元教え子に会ってきた話を書こうと思います。

 

まあ元教え子といってもいろいろあるのですが、教員の界隈では、「かつて担任したり、授業を持ったりして1年ほど以上関係を持ったことがある」ことを指す...と思います。要するに塾講師とか教育実習は含まれないという話ですね。

 

本来、こういう話をするのは峠も超えた大ベテランの方なのですが、それを2年目の私がするという奇妙なお話です。

どういうことなのか、という経緯から紐解いて話していきたいと思います。

 

詳しくは前回記事に記載させていただいたので詳細は省かせていただきますが、昨年度1月、私は3学期を迎えようというタイミングで適応障害を発症し心療内科に通院、残る3学期は病休により棒に振ることになりました。そして年度末をもって表面上は辞職。その後6日後に再び講師となり、事実上の転勤という形で今の学校に勤めています。その時の私のポストは4年生担任。私は、その担任していた子どもたちを置いて転勤という形になってしまいました。

そしてその当時担任していた子どもの中に1人、不登校気味の女子がいました。仮名をAさんとします。Aさんは4月の引継ぎ当初、「2年生の3月に発熱で休んで以降、登校しぶりなどがあり、教室に入るのが難しくなっている」とのことでした。まあ、不登校傾向のある子ですね。実際、4年生に入ってすぐは教室への登校を続けることができたものの、ゴールデンウィークを過ぎたあたりから徐々に別室登校の頻度が増えていき、2学期中ごろからは完全に別室という形になってしまいました。そして対応していく中で、Aさんの保護者を怒らせてしまうこともありました。

 

そう、今回話をしたのは、5年生になったAさんです。保護者の方も同伴でした。

きっかけは勤務先にかかってきた電話でした。転勤以降、私宛の電話というものは本当になくて、私宛の電話というだけで耳を疑ったほどです。出てみると、Aさんの保護者が「Aが話をしたいと言っている」とのことでした。私は退勤後ならということで応じ、実際に話をすることになりました。

 

私も、転勤後も心残りというか、引っ掛かっている部分がありました。それは私が担任した子どもたちのその後です。その中でも特にAさんは、3学期以降しっかり登校できているかどうかという心配がありながらも、それを確認するすべもなく転勤という形になったため、本当に気になっていました。

 

そんな思いを抱きながらもAさんと話しました。半年間ですごく背が伸びていました。少し見ない間にこんなにも子どもの背は伸びるんだなあと実感。そしてその後のことを軽く話しました。Aさんは5年生になってからも別室登校を続けているようです。そこはまあ、一安心。しかし、学校はあまり楽しくない様子でした。

 

そんなAさんが一言「4年生の頃の方が楽しかった」

 

お世辞ではないと思います。Aさんは嘘をつけません。仮病はものすごく使いますが、大概バレバレです。ましてお世辞を言えるタイプではなかったと記憶しています。なので、お世辞である可能性よりも、本心である可能性が高いと推測しています。

 

――私の10か月は、正しくはなかったが間違っていなかったかもしれない――

 

私が担任していたあの期間を、楽しかった、と言うのです。いろいろな行事や日常生活、全てが今より楽しかったと。まるで社会人が「大学のころは楽しかった」とでもいうかのように。現在彼女の担任は勤務20年前後のベテランの先生です。その先生の担任するクラスよりも、去年の私の担任するクラスの方が楽しかった、と。そう言うのです。

私は別に、その先生より優れたポイントがあるとは思いません。せいぜい私がやったことと言えば空き時間に彼女のいる別室に顔を出したくらいでしょうか。それでも今思えば、その些細な時間が大きかったのかもしれません。

 

正直、最初は思いつきでした。なんとなく、担任しているしAさんの様子も気になるしということで様子を見に行ってました。それがまさか、Aさんの心にはそんなにも響いていた、ということでしょうか。

 

これだからこの仕事は楽しいんです。自分にとっては些細なことが、子どもにとっては多大な影響を与えていることだってあるんです。本当に、彼女の支えに少しでもなれていたなら、それだけで私のしてきたことには意味があった、ということでしょう。

 

これもまた、私という人間の足跡なのだ。

すずと、ことりと、それからわたし。

皆様、こんにちは。

この場においてはお久しぶりです、の方が正しいかな?

前回の記事、1年前ですって。時は早い。

タイトルについてはなーんも思いつきませんでした。

そんなことはいいんです。一応こういった形で文章には残しておこうかなーと思いまして。物書きか。

いろいろありましたが、わたしはいきてます。

今現在、この記事を書いてるのが2023年5月14日。2023年のゴールデンウィークが終わり、最初の一週間を越えた先の日曜日です。まあ、2023年に入って5か月とちょっと経ち、その間にいろいろあって環境も結構変わったんで書き散らしとこうかなと思います。チラシの裏的感覚。

 

とりあえず、現状を話すためには、時計の針を幾分か戻す必要がありそうですので、まずはそこから。

 

時はさかのぼり1月11日。3学期がスタートし、始業式を終えた翌日でした。某小学校に勤務し、学級担任をしていた私は、通勤のために最寄りの駅まで歩いていたところ、路上で嘔吐しました。

(正直今文章で書き起こしてもよくわからない状況ですが、これ以上の説明をする語彙は生憎と身につけていません。学がないことにはどうかご容赦を)

別に前日過度な飲酒をしたとか、暴れ散らかしたとかはしていないと記憶しています。普通に寝て、普通に起きて、普通に学校に向かっていました。ただまあ、さすがに嘔吐した状態で仕事を全うできるとは思えず、その日は欠勤の連絡をしました。一日しっかり休んで、また明日がんばろう、と。病院も行って、体のケアに努めたつもりです。

 

結果として、三学期中に「明日」は来ませんでした。

 

翌日以降も吐き気や嘔吐、頭痛に悩まされて休む日々。一体全体どうなっているのかと、自分でもわからなくなりました。その中で、「心療内科」の受診を勧められます。今思えばこの時、本当にいろいろな方に勧められてた気がしますが、その時の私はそこまで深刻に見えていたのでしょうか。

 

その週の土曜日だったかな、心療内科を受診するために普段めったに使わないJRに乗り、向かったのは福島駅。福島、といっても東北地方の福島県ではなく、大阪市福島区ですね。心療内科って本当にどこいっても予約も一杯で、途方に暮れてたような気もしますが、その割には早く見つけることができたんじゃないかなと思っています。

 

最初のカウンセリングの時、別にそんなつもりなかったのに大泣きしました。ただただ現状を話してただけなのに。子どものころ筋金入りの泣き虫だった私も、高校に入学したあたりから泣くことは大分と減り、この件より前いつ泣いたかと聞かれても高校大学に在学中に泣いた記憶は見つからないです。それくらい泣いてなかったのですが、本当に大泣きして、その時に自分でも「あぁ、なんか、キツかったんやな」と思いました。

カウンセリングの後診察とか検査?とかを受けて、医師の方から言い渡されたのは「適応障害」。鬱の一歩手前?みたいな状態だったらしいです。それからは自宅療養になり、仕事の休みの扱いも「病休」になり。当初は1ヶ月(2月中旬まで)の休養の予定だったのですが、校長先生の勧めもあり、3月末までということになりました。年度で区切りをつけた方が復帰もしやすい、と。

 

1月当初は本当に無気力で、家を出るのも専ら義務感からくる散歩くらいでしたが、2月末あたりからは少しずつ活力的なものも戻ってきていたような気がしています。3月には2度旅行も行きました。病休中にすることではないような気もしますが...それでも「そうしよう」と思えるくらいまで回復していたという事実は自分の中ではとても大きかったかなと思います。

 

3月には市の教育委員会とも来年度の勤務形態について話し合いを行いました。結果、異例ではあるのですが、1年で転勤となり、新たな学校に籍を置くことになりました。以前の学校もとてもいいところで、そのまま働いてもいいと思っていましたが、労働環境の調整ということもあり、新天地へ向かう運びとなりました。

 

役職も、今年度は「支援学級担任」としてスタート。まあよほどのことがなければ1年間このままやっていきます。もっとも、前年も「よっぽどのことがなければ」と言ってたらよっぽどのことがあったんですが...

 

1ヶ月、頑張ってみましたが、前の学校とは本当に勝手が全然違って、でも楽しくて。特に今の学校は児童数が少なく、クラス内の仲もすごくよくて。前の学校とは違う暖かさがあるなあ、と。地域の特色によって本当に変わるんだなって今感じています。なんとか、今度こそまず1年頑張りたいです。

 

 

それにしても、前のところもそうでしたが、子どもの個性は見てて楽しいですね。本当にいろんな子がいる。地域で変わってくるのもそうだし。

 

みんなちがって、みんないい。

2018.4.3~2022.3.18

皆様、こんにちは。

タイトル、勘のいい人は察してるかもしれません。

私という人間が大学に在学していた期間です。

思えば短かったですね。もう一回やれって言われたら多分やれます。ていうか心残りが普通に多すぎてやり直したいまである。でもそれは仕方のないこと。

今この文章を書いているのはもう既に3月19日。卒業式も終え、卒業証書・学位書も小学校一種免許状も貰っています。学生証も大学に返還したので、今の私はもう学生を名乗ることはできません。学割も使えません。マジか。

よく「大学生のころは楽しかった」っていう人を見ました。特に高校生の頃でしょうか。その時の自分は「いやいや、大学生は高校がいいっていうし、高校生は中学がいいっていうし、そういう感傷に浸りたいだけでしょ」って、思ってました。だけどこの意見は今なら胸を張って否定できます。大学の4年間、本当に楽しかった。自由度とか、要素はいろいろあるんでしょうけど。

 

まあこんなこと書くだけにこの文章を書いてるわけではないんです。実は卒業式の後、友だちと一緒にお世話になった先生方にお礼回りをしてたんですけど、その時に学部長のところにも行ったんです。私に「自分磨き」を教えてくれた人ですね。その先生に言われたんです。

「合格したしてないとか、そんな見ず知らずの人の評価なんて気にする必要はない。いい意味で自分を大事にすることが自分磨きってこと。大学に入ってから皆さんは自分磨きを頑張ってきた。この大学に素晴らしいお土産を残してくれた」と。

やっぱり、この人はすごいな、と。そう思いました。でもやっぱり、この大学で学んできてよかったな、って。選んできた道は間違ってなかったんだ、って。これからも自分磨きを続けよう、って。そう、思えました。

大学生活が終わって、大学の友だちとはみんな離れ離れになります。正直な話、今この文章を書きながらも泣いてます。でも、別れの数だけ出会いもあるものです。新たな出会いを期待して、これからも生きていこうと思います。

 

卒業とは即ち、新たな生活の始まりだ。

暗い話

皆様、こんにちは。

前回までは結構前向きというか、明るめの話をしてきました。

今回はまあ何と言いますか、光があれば影があるとかそういうことではないですけど、ちょっと暗めの話をしようかなと思います。

環境が変わるのってやっぱ不安もありますし、そういうのが日に日に増えていくのが自分の中でもわかるのでちょっと吐きだしてみようかなと。お目汚し失礼します。

 

まあいろいろあるんですけど、自分の中でちょっと迷いが出てきてるってのが1つあります。要因としてはまあいくつか考えられますが、まずは教員採用試験に落ちてるってところですかね。講師としての任用ってのは、やっぱりこの先どうなるんだろうという不安があります。それと大きくもう1つが、友人の友人(要は赤の他人に近い人なんですけど)に現役の先生がいらっしゃるのですが、どうもその先生の職場はまあまあしんどいらしくて。マイナスイメージというかネガになるような話を結構されるんですね。そんで、「先生はやめた方がいい」、と。マイナスイメージってやっぱり1回ついちゃうとなかなか拭えなくて、それが迷いとして付きまとってる感じですね。

 

それとまあ、これは2月くらいからの話なんですが、明らかに生活が変わると思うんですよね。大学卒業前ってほんとにめちゃめちゃ時間あって、かといってやることがあるかと言われたらないし、まあ一言でいえば遊んですごしてるわけですよ。それが4月になると急激に変わると思うと適応できるかどうかも不安ですね。さっきとは別の人ですけど、仕事辞めちゃったって人もいて。その人を責めるつもりは毛頭ないんですが、やっぱり自分もそうなる可能性もあるよなあ、と。どうしてもそういう不安はつきまとっちゃいますね。不安というか、怖いというか。

 

後はまあ、自分の弱さは自分が誰よりも知ってるので、いろいろな重圧に耐えられなさそうってところもありますかねえ。何もないうちはいいと思うんですけど、なんかあった時にポッキリ行っちゃいそうで。それとまあこれは精神的に子供だからなのかもですけど、責任問題とかそういうことが怖いんですよね。こんなこと言ってるのほんとに甘ちゃんだな。

 

まあもちろんこれからたくさんの子どもと関わっていくわけで、それ自体はまあ楽しみではあるんですけど、その子らの人生を預かるって考えた時に、自分には重すぎるんじゃないかって考えたりして。怖いです。今は恐怖感とかマイナスな感情が結構勝ってますね。しかもそのくせして勤務先は執筆時点でまだ決まってないってのも不安を煽ってます。まあもう決まってしまったことなのでやるっきゃないとは思ってるんですが、なんだかんだ怖いなあということで文字に起こしてみました。

 

ここでくらい弱い自分を出せる場でありますように。

大学の学び「自分磨きの人生」

皆様、こんにちは。

懲りずにまた自分のことを吐き出したいな、と思って今この文を書いています。

というのも、前回「足跡」って記事を書いてて、今までにない楽しさというか充実感というか、気持ちよさを感じたのでまた書いたろうかな、と。

 

今回は前回から規模を広めて「大学4年間でのこと」について書いてみようかなと思います。この文を書いているのが2022年2月27日のことなんですが、大学の卒業式まで1か月を切りました。どんなことにも始まりがあれば終わりがあるように、大学生活も終わりを告げようとしています。実感はないですけど。

んで、1か月前くらいに大学4年間での学びについて学生の前で発表するという機会もあり、せっかくなので皆様にも話してみようかな、と思った次第です。

 

まずは大学に入ろうと思った経緯から。

最初に先生になろうと思ったのは小学校5年生の時ですね。当時は野球少年だったのでプロ野球選手になりたいなーと考えてたんですが、それが無理になった時は先生もいいなあと考えたのが最初です。

んで中学、高校と進むうちに自分に野球選手としての才を自分に見いだせなくなって(ていうかそもそも中学卒業のタイミングで野球はやめてしまったんですが)、それに比例するように先生になりたいという気持ちが強くなりました。そして、それならやはり教育大学に進学したいと考えていたのですが、本命の公立大学は決めていたものの、滑り止めを決めあぐねていた時にチラシを見て決めました。結局本命は落ちたので、滑り止めとして受けた私立大学に行くことになった、というのが正直なところです。

 

んで、ここからが4年間で学んだこと。変われたことともいえるかもしれません。

入学して間もないころなんですけど。「教員人生は自分磨きである」という話を学部長にしてもらいました。最初は正直「嘘だろ」と思いました。というのも、私は先生という人間を完璧であるとみていたからです。しかし、大学で学んでいくうちにどうやらそうでもないらしいということが分かってきました。先生だって常に勉強してるし学んでいる。自分を磨いている。完璧な先生なんていないんだな、ということが、インターンシップや教育実習で先生方を見ているうちになんとなくわかってきました。完璧でないからこそ、完璧に近づけるように自分を磨いている。そういったことが分かるうち、私ももっと自分を磨いていく必要があるなと感じるようになりました。

そして、そういったことを考えていくうちに、自分を変えていく必要があるなということを考え始めました。正直この時まではネガティブ思考だったし、自分のこと大嫌いでした。自殺未遂もしたことがあります。死んではないですけどね。けど、こういったマイナス思考はプラスになる局面とマイナスになる局面の差を考えた際にマイナスになる局面の方が多いなと感じたので、ポジティブ思考、自分大好きに変わっていこうと考えるようになりました。そして、好きな自分をもっと好きになれるように自分を磨いていこうという気持ちになれました。

変わった点を大きく上げるのであればもう1つ。「ゲームにもストイックに取り組むようになった」ことです。正直これも高校とか大学入学直後までは、例えばPvPゲームとかで負けても「まあ所詮ゲームだし熱くなることもないか」と考えていたのですが、とある人の「ゲームにすら本気になれない人が一体何に本気を出せるのか」という言葉を聞いたときに、自分の浅さに気づきました。最近たまに「わどさんってゲームに対してもストイックというか真面目に取り組みますね」って言葉を頂くのですが、由来はここからです。それまでは自分の中でもなんとなく手抜きがあるのが気にもなっていたし、やっぱりゲームといっても本気でやれば楽しさも倍増するということにも気づきました。勉学とか仕事には真面目に取り組むべきというのはその通りですし、「どんなことにも全力」というのは素晴らしいことなのですが、そこに娯楽含めないのはなんだか違うなということです。私自身もこれが実践できているかと言われたら微妙な感じではありますが、実践できるように意識はしているつもりです。

 

最後に、この学んだことから今後どうしていきたいか、について。まあもちろん先生になるってのはあるんですが、先生になってからも、延いては人生において「自分磨き」というテーマを貫いていきたいなと考えています。そして、最期、人生が終わる間際に「少しは完璧な自分に近づけたな」という風に感じられたらいいなと思います。

 

これが、私の考える、「自分磨きの人生」の終着点だから。

足跡

皆様、こんにちは。

この文を読んでいるのは恐らくは私という人間に興味がある人だけだと思います。

やるやると言ってて結局やってなかった「2021の振り返り」を、一念発起してはてなブログに登録して書き記そうと思い至りました。リアルでの方ね。Twitterの1年なんて覚えてないので。

Twitterのスペースでやる、といったことも考えましたが「文字に起こす」ということが重要だと思うので。

人に見せるのに拙い文章なのは本当はよくないんですけど。自分のありのままを出したいので一発走り書きです。推敲もしません。たぶん。論文とかでもないんで。

2022年2月下旬に2021年の振り返りも意味が分からないんですけど、そこは許してください。ぶっちゃけ自分もうろ覚えの個所がいっぱいあるんですけど、それなりにわどという人間に影響があった1年だったと思います。

 

1月。ていうか3月までは特に何もないです。まだこの頃は3回生か。ゼミで勉強会やってたりで勉強まあまあ頑張ってた時期。みんなで頑張って勉強してたし、そこに他のゼミの友だちも加わったりして。ぼくも理科の問題を作問して出題したりしてた。

ただ3月にある春季セミナーの申し込みをサボった。今思うと自分の怠惰さに嫌気がさす。何をやってたんだろう、って。あと、大学推薦の学内選考に挑戦したのもこの時期。

 

4月。4回生になる。大学推薦は京都市で通ったので、大阪から京都に通うのかという不安を抱えながらも、京都市の推薦生として大学推薦生対象のセミナーにも参加した。この頃から本気で「自分は教員採用試験に挑戦するんだ」という気持ちが芽生えてきた頃だったはずですね。ただ、面接練習でバッキバキにメンタルブレイクして挫折しかけた。あれ、全然喋れない。この時期に?3か月後には面接あるのに?こんなので大丈夫?落ちるんじゃない?正直、不安しかなかったです。

ただ、セミナーの先生が喋るコツみたいなのを毎授業ごとに教えてくれて、少しづつ喋れるようにはなっていった。

 

5月。セミナーの先生から「振り返り」の提出を義務付けられて、振り返りを書くようになった。あれ?今週の自分、喋れるようになってんじゃん。このペースならいけるんじゃね?自分、やるじゃん。不安を押し殺して、自己肯定感を高めていきました。大学推薦の課題の小論文も先生方の協力もあってめちゃめちゃいいものが書けた。これはいける。

 

そう、思ってた。過去形です。

 

京都市に、落とされた。

成績が、足りなかったんだって。たぶん。具体的な理由は京都市が公表してくれなかった。

ゼミの先生には「そんな後出しの理由で落としてくるなんて許されへん」とか言ってくれた。最初は正直自分は何も考えたくなかった。ああ、自分は終わったんだって。そう思った。

 

でも、道は続く。京都市に行かなくていいんなら、遠慮なく大阪に挑める。地元で、働きたい。地元の先生をして、子供たちの未来を切り開きたい。その思いで立ち直った。

 

その後は完全に目標を大阪府に切り替えた。絶対見返したる。こっちを見る気がないならこっちを見させてやる。見てくれたところで専ら応えてなんてやらないけど。その思いがあったから、頑張れたと思います。

ゼミの勉強合宿も参加した。コロナ云々もあったので家族と折り合いをつけて通いになったけど、3日間大阪から兵庫県に通った。明石海峡大橋の近く。

 

そうこうしているうちに6月末。大阪府教員採用試験の1次試験。筆記。勉強合宿でも筆記対策はしたし、不安はなかった。

知らない問題がいっぱい出て焦った。でもなんとかなる。そんな気がした。教職教養がなかなかきつかったことが記憶に残っています。

 

1次試験、8割の点数をゲット。無論合格です。2次試験は個人面接。

この先筆記試験はなかったので、とにかく面接練習をした。2次試験の前日にすら面接練習やったなあ。

 

2次試験。最初の質問から対策していない質問が来た。どうしよう、どう答える?頭が真っ白になった。正直、その後のことは覚えていない。終わった後の電車の記憶だけ鮮明にある。落ちたなと思う自分と、なんとかなってると思う自分がせめぎあってました。

 

結果、不合格。なんとかならなかった。

 

実はこの結果を知ったのは電車の駅の構内でした。今でも覚えてます。膝の力が抜けて崩れ落ちた。崩れ落ちるって、ああいうことを言うんですね。

正直死のうかと思ったけど、大学の友人の応援をしてるうちにそんな気持ちは消えていった。なぜでしょうね、自分でも覚えてないんですけど。

 

友だちの応援をして、結果に本人以上に一喜一憂して、そうこうしているうちに9月が過ぎた。気が付けば最後の壁が3か月後に迫る。卒業研究。

正直この頃はいわゆる燃え尽き症候群になってたので、全く研究が手につかない。時間だけが過ぎて、論文は進まない。それでも、なんとか締め切りには間に合わせた。帳尻を合わせた形にはなってしまったけど、研究自体はとても楽しくできた。「自分が気になるテーマ」だったからだと思います。やっぱり、自分が気になることは好奇心がうまく作用してくれますね。

あと、試験の話を後輩にする機会もあったんですが、やっぱり大学としては成功談を話させたい。ゼミの先生からは一応話もあったんですが、落ちた人の話は不要ということで話をすることはなかったです。

 

そして。2021年は終わった。さようなら2021年。はじめまして2022年。

 

これが、わどという人間の2021年の足跡です。正直挫折の1年だなあ。

失敗ばかりで、とても誇れるような話なんてない。でも、栄光の陰には必ず挫折がある。試験だって、受けた人が全員受かるわけじゃない。ていうかそんなの試験とちゃうやん。顔パスやないかい。先ほど成功談を話させたいから自分の話はなくなったということを書きましたが、ぼくとしては正直話したかった。試験なんだもの、美談ばっかりなわけないじゃないか。自分としてはそういったリアルを感じてほしかったし、この話を聞いてより一層後輩たちには頑張ってほしかった。この話を着たくらいで怖気づくくらいなら、そもそも向いてないからやめた方がいい。目指すならそれくらいの覚悟をしろ。そういうことを伝えたかったし、これは伝えるべきであると胸を張って言えます。

失敗だって、大切だ。挫折だって、必要だ。

 

そうこうしているうちに2022年。講師登録の手続きも進めています。順調にいけば4月から教壇に立つ。でもあくまでも立場は「講師」。やることは同じでも、「先生」じゃない。今年も挑戦します。

「わど講師」じゃなく、「わど先生」になるために。そして、この大きな失敗談も、いつか「成功談の前座」として語れるように。

 

どんな出来事も、自分の足跡なのだから。